「足るを知る」ということ−ブータン人の視点から
※この日記は「月収3万円でもJill Stuartのサングラス(1.5万円)を買うブータン人」の続きです
以前、友人たちのお金の使い方をみて、考えるところがあって、「月収3万円でもJill Stuartのサングラス(1.5万円)を買うブータン人」という日記を書きました。
自分の稼ぎをもとに買うものを考えるのではなく、ほしいものをポンポン買っていく友人たちを見て、
急にモノに関する情報が得られるようになり、目の前に実際にモノが並ぶようになったブータンの人たちは、
ひょっとして、目の前にあっても、買えないものがあるということを、知らないのではないか、と。
その後、これについてブータン人と話しているうちに、
あぁ、私が彼らの行動がよくわからないように、彼らには彼らの視点があって、彼らから見たら、私たちの行動はよくわからない
私は片側からしか、ものが見えてなかったなぁ
と思い、ブータン人から見たときの、「足るを知る」ということについて、できる範囲で、書いてみようと思いました。
私には、最終的に、彼らの視点はわかりきれない気もするので、
ブータンの人が言うには、という形で、あるブータンの人と私の会話をそのままご紹介したいと思います。
もしまだ「月収3万円でもJill Stuartのサングラス(1.5万円)を買うブータン人」を読んでいらっしゃらなかったら、先にそちらを読んでいただくことをおすすめします。
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先日夜飲みに行っていたとき、友人の友人である、ブータンのちょっとインテリな人に会いました。
環境系のコンサルをしていて、ブータン政府だとか、アジア開発銀行などのアドバイザーをしている人です。
その人と、ブータンの若者のお金の使い方について話していたときの会話です。
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私 「かくかくしかじかで、なんだか、日本人の私にとっては、今のブータンの若い人のお金の使い方は少し違和感があって、大丈夫かなぁと、思ってしまいます」
おじさん 「へー、そうか。でも月収の半分でも、そのサングラスがかっこよかったら、買うというのは、僕にはとても自然なことに感じるけれど。その方が、人生楽しいじゃない」
私 「そうなのでしょうか。でもそうやっていったら、いつか、破産しちゃうように思って」
おじさん 「そんなことないよ。人生の中には、稼ぎより多く使うときと、少なく使うときがある。いつか帳尻があう」
私 「欲望って、どんどん大きくなるのではないかなと思って。たとえば、いま3000円のジャケットを着て満足していたとして。1万円のすごくかっこいいジャケットをみつけてほしくなり、買う。それを気に入っていても、翌年、2万円のかっこいいのを見てしまい、ほしくなって買う。そして5万円のもっとかっこいいのを見たら、またほしくなって買う。そんな風に、欲望って大きくなるのかなと。そしていまブータンの若い人は、身の丈で止めずに、欲望が大きくなるのにあわせてどんどんよりいいものを買っていく感じなのかなと」
おじさん 「そりゃそうだよ。1万円のジャケットより、2万円のジャケットの方がかっこよかったら、買う。さらに5万円のジャケットがかっこよければ、それは買う。そういうものでしょ」
私 「そうしたら、やはり、欲望はどんどん大きくなって、身の丈を超えていく。昔はよかったかもれないけれど、情報が増える中で、『足るを知る』ことが難しくなるのではないですか」
おじさん 「それは違う。だいたい行きついたところで、いつか気づくんだよ、結局ジャケットなんて、どれもあったかければ一緒だってね」
私 「そうなんですか。いつ、そう気がづくのでしょう」
おじさん 「みんなね、『だいたいこのへんまで行ってみたい』と思っている欲望の範囲みたいなものがあるんだよ。欲望は無限なようで無限じゃない。そこまでは、若いうちは特に、探検してみたい。我慢しないで、そこまで行ってみたい。でもそこに到着してみると、あぁこんなものか、と気づいて、身の丈まで、その欲望の範囲は縮むんだ」
私 「その『だいたいこのへん』って、どのへんなのでしょう」
おじさん 「それは各自が自分で決めるのだけれど。中ぐらい。ほどほどのところ。中ぐらいの生活をせよと、ブッダも言っている」
私 「そうなんですね」 (仏教はよく知らないものの、とりあえずそういうものかと思ってみる)
おじさん 「そうなんです」
私 「でも、物質的には恵まれているはずの先進国の人間は、その、中ぐらいなり、欲望の範囲なり、終点なりがわからなくて、どんどん、どんどん、進んでしまい、物質的に恵まれていても、『足るを知る』ことが難しくなっているのかなーと。現状になかなか満足できなかったり、欲望を追求して、たとえばサブプライムやカード破産が起こったり」
おじさん 「それがね、興味深いよね。僕もね、同じ問題に興味があって、考えてるんだ。なぜこの人たちは一定のところで『足るを知る』ことができないのだろうと思って。でもずっと観察して、ずっと考えているのだけれど、どうしても、わからない。精神構造が違うとしか、思えない」
私 「精神構造が違う、ですか」
おじさん 「きみもわからないのかもしれないね」
私 「たしかにわからないかもしれない」
おじさん 「じゃぁね、一番簡単でシンプルなたとえをするよ。若いころはね、すごく異性ににモテたいと思う。付き合いたいと思う。だけどずっと欲望が広がり続けて、何百人何千人と付き合ったりするわけじゃないでしょ」
私 「はい」
おじさん 「それに、たとえば一番かわいい、一番かっこいいといわれている人が、自分に一番の人であるわけでもない。ずっと熱を上げて、夢中になって、追いかけていても、そして付き合えたとしても、ふと行きつくところまで行きついたとき、なんで自分はこの人にこんなに夢中だったんだろう、と思ったりする」
私 「ふむ」
おじさん 「若いころは、遊びたいと思っても、ずーっと一生かけて、遊び続けるわけではない。ある程度のところで、ふーっと落ち着いて、自分の身の丈に合った、自分が一番落ち着ける人と、結婚したりして、落ち着いていく」
私 「はい」
おじさん 「そのあと少し遊んだりもするけどさ(笑)」
私 「(笑)」 (ブータンのMBAを思い出す)
おじさん 「欲望というものは、本質的にそういうものなのだと、思っている。だからね、僕から見ていると、どんどん手に入る情報・目の前のモノが増えるのにつれて、欲望も大きくなってしまって、「足るを知る」ということができなくなる状態の方が、理解できないんだよ」
私 「そうかもしれない」
おじさん 「ブータン人は、大丈夫だよ。僕たちには、チベット仏教の教えが深く根付いている。我慢をしないでよく遊ぶ、楽しく暮らす。そしてある程度のところで、自然に足るを知って、落ち着いていく。昔も今も、なにもかわらない。欲望というものは、本質的なもので、得られる情報の量だとかでそう簡単に変わるものではない」
そういわれてみれば、そうなのかもしれない。
モノに対しても、ヒトに対しても、欲望というものは、人間が根源的にもっているもので、本質的には今も昔もなにも変わらないのかもしれない。
「足るを知る」ことも。
そしてブータン人にはブータン人の、欲望との付き合い方があるのかもしれない。
また、ブータン人には、日本人の気持ちをすべて理解することはきっとできないだろうと、日本人が自然に思うように、
たぶん私たち日本人も、ブータン人の気持ちを、100%理解できるわけではないのだろうなぁと思う。
自分が理解できないことがあると、自覚しておくことは、いつだって大切だと思った。
最後に、ブータン人が信仰するチベット仏教の、ダライラマの言葉を紹介して終わります。
「足るを知る」について。
If one's life is simple, contentment has to come. Simplicity is extremely important for happiness.
His Holiness the Dalai Lama
もしあなたが質素に暮らしていれば、きっと充足感を得られるでしょう。シンプルでいることは、幸せでいるために非常に重要なことなのです。
ダライ・ラマ
写真は同僚(三十路女子)の机に貼ってある、ダライラマ。(でも彼女こそが、Jill Stuartのサングラスを持っている)